2012年08月31日

「ほんとうの幸福」の“種”

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだ事がありますか。周囲から冷たくされていた主人公のジョバンニは、幻想的な銀河鉄道の旅で、世の中のさまざまな不条理を悟り、成長していきます。そして、「みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」と決めます。賢治は、別の著作の序に、“畑や森の中で、ひどいぼろぼろの着物が、素晴らしいびろうどや羅紗や宝石入りの着物に変わっているのを、たびたび見た”と記しています。彼は、懸命に生きる人間の内にこそ、「ほんとうの幸福」の“種”があることを知っていたのでしょう。  

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2012年08月30日

今日という日

 不思議なもので、大変だと思ったことが、後から振り返ればたいしたことでない場合があります。反対に過去を振り返った時、その時は気付かなかった重大な変化を発見することがあります。
 この「時間の遠近法」を用いて研究を進めたのが、イギリスの歴史学者・トインビー博士です。博士は“未来の歴史家が現代をどう位置づけるか”という観点に立って考察しました(『試練に立つ文明』社会思想社)。
 その観点から見れば、今日という日が、どれほど大切な日であるか判ります。それは“未来の視点”から眺めるとより鮮明になってきます。  

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2012年08月29日

図会

 江戸時代。全国各地の名所案内集というべき「図会」が、次々と作られました。その中でも現在の大阪、兵庫を描いた『摂津名所図会』は9巻12冊の大作です。
 最初に登場するのは、大阪・住吉です。場面は旧暦の桃の節句のころ、住吉の海岸が潮干狩りを楽しむ人々で、大変な賑わいだったこと等が描かれています。また、この時季は潮が遠くまで引くので、干潟を歩いて、尼崎までわたることができたそうです。人々は「歩行者天国」のように、海辺に沿って、楽しく語りながら、兵庫と大阪を往来したそうです。
 別の「図会」には、琉球(沖縄)からの船が大阪の港に到着する様子も描かれています。思いのほか、大きく豊かな交流が築かれてきたのだと驚きます。
 誰しも歴史に向き合う時、新しい発見に心が弾みます。それぞれの時代、それぞれの地域に、民衆が行き交い、躍動した歴史があります。現代の私たちの行動も、後世の人が心を弾ませる「歴史」として残したいものです。

摂津名所図会 http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme89.html  

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2012年08月28日

後世への伝達者

 4年前、約2500年前の古代ギリシャ時代の船が、イタリア・シチリア島南部の海底から引き揚げられました。船は、ギリシャ最古といわれる叙事詩「イリアス」に描かれたつくり方で、建造されたものだと報道されていました。
 古代ギリシャの大詩人ホメロスが、トロイ戦争の英雄アキレウスの雄姿を記した「イリアス」があります。かのアレキサンダー大王も、“人生の一書”として愛読していました。大王は、あるとき、“私は、アキレウスがうらやましい。彼にはホメロスという「後世への伝達者」がいた。彼は幸せだ”と語ったそうです。自分には、ホメロスのように歴史を残してくれる人間がいない、と嘆いたそうです。

イリアス http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%EA%A5%A2%A5%B9  

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2012年08月27日

不屈の言葉

 「はかり」は、物の重さを量れますが、自分の重さは量れません。「物差し」は、物の長さを測れるけれども、自分の長さは測れません――。これは、江戸時代の儒学者・佐藤一斎の言葉です。
 他人と比較することで、自分を知ることはできません。当たり前の話ですが、ともすると忘れがちです。そうした意味で、数値だけで「人間」を推し量ることはできません。人が秘める可能性の力は多彩ですから。
 歴史に名を残したチャーチルやガンジー、アインシュタイン、レントゲンなどは、若いころは落第生だったり、劣等生だったりしたという。しかし、彼らには共通することがありました。それは「自分で自分をあきらめなかった」ということ(『青春対話I』)。決して自分を小さく量ったりはしなかったのです。
 よく「自分はまだまだ」と言います。私たちは、その言葉を、自分で自分に見切りを付ける時に使いがちです。そうではなく、着実に粘り強く前へ進もうとする「不屈の言葉」にしたいものです。  

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2012年08月26日

畠山重忠

 神奈川県・横浜市・旭区の鶴ケ峰に大きな石碑があります。この石碑はこの地で戦い没した武将・畠山重忠を顕彰するものです。さらに同区内には重忠ゆかりの史跡が点在しています。これは畠山重忠が長く人々から敬愛されてきたことを物語っています。
 畠山重忠は源頼朝に仕え、幾多の戦いで活躍した武将です。鎌倉幕府の成立にも貢献しました。同時期に鎌倉で活動をしていた日蓮大聖人も「畠山重忠は日本第一の大力の大将なり」(御書1247ページ)と称えています。
 畠山重忠は当時から傑出した剛勇で名を馳せていました。剛勇だけでなく英知にも秀でていたそうです。奥州の合戦で、2万余の軍勢による強固な守りに直面した時。彼は巧みな戦術で活路を開き、「思慮すでに神に通ずるか」と讃えられました(『畠山重忠』吉川弘文館)
 畠山重忠の知勇兼備。その原動力は何だったのでしょうか。後世の浄瑠璃には“身は離れていても、いつも重忠の心は頼朝のそばにあったからだ”(「出世景清」)とうたわれています。主君に勝利を誓い、そのために全魂を注ぐ。この心意気が、重忠の卓抜した知恵と勇気の源泉だったと言えましょう。

畠山重忠 http://homepage3.nifty.com/hatakeyamasigetada/  

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2012年08月25日

「同生天」と「同名天」

 仏法にこんな教えがあります。人の両肩には、生まれた時から「同生天」と「同名天」がおり、この「同生天」と「同名天」はその人の善悪の行為を記録し、交互に天に報告しているという教えです。
 二人で見張っているわけだから、正確で漏れることがありません。仏法は、「業」という日常の行為の積み重ねを、擬人的な表現で教えています。他人が見ていようが、いまいが、私たちの行いはすべて、深い因果の理法の中に刻まれています。この教えの真意は、地道に善根を積んだことは自らの福徳と輝き、逆に手を抜いたり小手先で行ったことは最後に馬脚を現すと裏表の無い人間の完成を願っています。
 かつては、悪さをした子に「罰が当たるよ」と叱ったものです。今や罰を恐れぬ世となり、「他人に分からなければ」という風潮がはびこる世の中となりました。不正や横領、詐欺などの事件の多くは、目に見えない因果律を知らない社会に生まれるのではないでしょうか。  

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2012年08月24日

最高の宝

 18世紀、琉球王国の黄金時代を築いた蔡温(さいおん)。彼は「琉球の五偉人」の一人と言われ、首里王府の行政の最高責任者である三司官に就き、多くの功績を残しました。
 哲人指導者であった蔡温は、「剣は小宝なり」「大宝はただ汝の身なり」との一文を、次のエピソードを通して残しています。「私は、先祖代々に伝わる大切な剣を、一日も怠らず磨いております」と語る少年に、おじいさんは尋ねました。「その剣以外に、おまえは何か宝を持っているか」。少年は「何も持っておりません」と。おじいさんは少年に言いました。「その剣など小さな宝にすぎない。君は最高の宝を持っている。それは君自身だ」。と。そして“君自身の生命の宝を、なぜ磨かないのか”――この問いかけに、少年は深く感じ入って感謝したそうです。

蔡温 http://rca.open.ed.jp/city-2001/person/04saion/index.html  

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2012年08月23日

民衆のエネルギー

 戦国時代。大阪・堺は、世界的都市として、見事な発展を遂げていました。町を訪れた外国人宣教師は「堺の町より安全なる所なし」「町は甚だ堅固」「此町は(イタリアの)ベニス市の如し」と絶賛しています。
 その繁栄の因は何か? 強大な権力を持つ領主ではなく、町人たちが合議で町を運営していたからといわれています。いわば、民衆を基盤としたからこそ堺の繁栄はあったのです。
 しかし、堺の黄金の日々は、長くは続きませんでした。あの織田信長は重税を課し、さらに豊臣秀吉は町にめぐらされた壕を埋め、合戦の際に放たれた火によって、町は焼き尽くされてしまいました。
 堺市は現在、大阪府で2番目の政令指定都市となっています。堺空襲など大きな惨禍にも見舞われたましが、不死鳥のように蘇ってきました。町の発展の原動力は、今も民衆のエネルギーであり自治の精神、進取の気性でしょう。  

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2012年08月22日

福澤諭吉

 福澤諭吉は現在の大阪市福島区の生まれで、同市北区に墓所がある緒方洪庵に学びました。
 揮毫の右肩に捺す印に「無我他彼此」とあります。「がたぴしなし」と読み、人間関係などの円満さを表しているそうです。また「我他彼此」には仏教思想が根底にあります。あらゆるものが互いに依存し合っている本質を見失い、我と他、彼と此を対立的に見る愚行を戒めています。
 さらに、諭吉といえば「独立自尊」が信条ですが、決して孤立はしませんでした。書の左下の落款印(雅号の印)には「三十一谷人」と印しました。「三十一」を1字にすれば「世」(卅と一)になり、「谷人」は“人偏に谷”で「俗」――「世俗」でを表しています
 日々、世の人々に交わり、時に導き、近代化を推進した福澤諭吉が重んじたのが、「演説」と「新聞」でした。英語の「スピーチ」を「演説」と訳し自ら率先して実践しました。日刊紙「時事新報」も創刊しました。声で、活字で、自身の主張を繰り返し展開した福澤諭吉です。  

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2012年08月21日

二老人

 仕事を子に託し巡礼に向かう二人の老人がいます。一人は自分しか信じない堅物な老人です。彼は周囲には目もくれず、巡礼地に辿り着きました。
 もう一人の老人は善良で快活な人です。彼は道すがら、貧乏と病気に悩む人を救うために手持ちのお金を使い果たし、巡礼を諦める(トルストイ著『二老人』)
 どちらが賞讃されるべき老人でしょうか。物語の最後の場面では、巡礼という形式にこだわるよりも、身近な実践の中にこそ、信仰の真髄があると善良で快活な老人が悟っています。自分ではなく他者のために行動する。そこに人生の真実の価値があると文豪は語っているようです。  

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2012年08月20日

京街道

 天下を統一した豊臣秀吉が淀川の治水のために建設した「文禄堤」があります。後に徳川の時代となり大阪と京都(伏見)を結ぶ最短コースの道「京街道」として整備されました。今も石垣のようになった堤の跡が、大阪の守口市駅(京阪本線)の周辺に残っています。
 この街道、江戸時代には道中奉行が管轄する幕府の主要路の一つでした。文禄堤の完成後、守口は交通の要衝として栄えました。現在も守口市本町付近には、当時の街道の宿場の面影があります。  

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2012年08月19日

新しいことに挑戦

 “風の谷”を自由に飛行する少女、ほうきにまたがり品物を届ける魔女、飛行艇を見事に操る豚……。アニメーション作家の宮崎駿氏は、映画の中で、キャラクターをよく空に飛ばしています。自身が最も得意とするシーンの一つです。
 しかし、宮崎駿氏は50代半ばで完成した「もののけ姫」では“得意技”を封じました。誰も飛ばない。テーマも、かつてない壮大さを選びました。これまで宮崎駿氏が培ったものをすべて捨て去り、新しいことに挑戦した作品でした。その興行は、当時の日本映画の記録を塗り替えた(鈴木敏夫著『仕事道楽』岩波新書)。自らの可能性に懸け、新境地に挑む宮崎監督の気迫が伝わってきます。  

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2012年08月18日

“居る”ことと、“戦う”こと

 戦国時代、織田信長が10年がかりで勝利を収めた「石山本願寺の戦い」がありました。後半の5年間は、重臣・佐久間信盛父子ら率いる軍勢が、敵陣・本願寺を取り囲んでいました。長い膠着状態の末、最後は信長の采配で、終止符を打ち信長軍が勝利しました。
 しかし、信長は、この直後、佐久間父子を遠国に“追放”しました。勝った末の重臣への処分に、皆が驚いきました。信長が自ら筆を執って父子に書き送った「折檻状」には、その理由が記されています。
 1、5年間も在陣していながら何ら成果を出せなかった。2、相手を大敵だからと攻撃しなかった。3、守りさえ堅固ならば、いずれ敵は屈服すると安易に構えていた。4、同志の戦う姿に触れても奮起できなかった。5、戦況について一度も信長に報告や相談がなかった。6、そのくせ自分の蓄財だけは怠らなかった――等。怒りに震えながら信長が綴った“罪状”は、19条にも及んでいます。
 戦場に“居る”ことと、“戦う”ことは違う。惰性や慢心や臆病を排し、勝利に向かって勇敢に前進しようとしてこそ、本物の戦いと言えます。  

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2012年08月17日

後継者

 後継者をいかに育成するか。これは、あらゆる組織や団体が直面する課題でしょう。
 スタジオジブリの宮崎駿氏の育成論。宮崎駿氏は新作映画の監督に、薫陶を重ねてきた若手を抜てきしました。そして氏が、この若手監督に対して心に決めていたことがあります。それは「作品作りには一切、介入しない」事。その為、新人監督は“手助けなし”の制作を強いられました。
 抜てきした若手は不慣れな監督業、最高責任者ゆえの孤独感、“ジブリ作品”という重圧……。それらを乗り越え、新人監督は作品を完成させました。宮崎氏は語っています。「一番責任を背負った人間が必死に考えて、“これは良かろう”ってところに、たどり着くしかないんです」と。  

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2012年08月16日

価値

 米国の哲学者デューイは偉大な教育者でもありました。ある時、教え子がデューイに論文を提出しました。一読した後、デューイはその教え子を褒めました。「ぼくはこの問題についてはきみのようには考えてみたことはなかった。なかなかよい考えだよ」と賛辞を送りました。
 その教え子は自信を持ち、やがてデューイと共に仕事を始めるほど成長しました。そこでデューイは気づきました。論文を出すどの学生にも自分に言ったのと同じ言葉をかけていることを。
 デューイの賛辞は教え子を決して軽々に評価しているのではなく、学生への思いやりだと教え子は感動した。哲学者と言えば固い印象がありますが、デューイは快活で自ら語りかける人だった(山田英世著『J・デューイ』清水書院)
 価値とは人と人との関係の中から生まれます。それがデューイ哲学の一つです。例えば、工場で1枚の葉書が作られる。学校で文字を習う。それだけならまだ価値とはいえない。だが残暑見舞いを書いて送れば、相手に心が伝わる。返事がくれば自分も嬉しい。この生命の充実・幸福感を価値と呼んだのです。  

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2012年08月15日

体験者には昨日のような出来事

 今日は67回目の終戦記念日です。20歳の時に沖縄戦を体験した、作家の船越義彰さんが語っていました。「沖縄戦の体験を書き始めることができたのは、戦後50年が経ってからです。それまでは1行も書けなかった。物事は、そこから離れてみないと書けない」と。
 この話を聞いて、戦争が刻みつけた傷跡は、かくも大きいものかと心が痛みました。船越さんの戦争は半世紀間も続いていたのです。“戦争を知らない人には、戦争は歴史の一コマかもしれない。しかし、体験者には昨日のような出来事”とも述べています。  

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2012年08月14日

プロの言葉

 一つの道を究めているプロの言葉には、深い味わいがあります。それは、その過程で幾度も困難な局面を乗り越えてきたからこそでしょう。
 あるレストランのシェフの言葉。「漫然と何回も味見をしていてもわからない。一発勝負。毎日がその繰り返し」。厨房ではいつも神経を研ぎ澄ませていたという。
 こちらは時計修理人。基本的な時計の知識を身に付けた上で、「それからは理屈はいらない。体で覚えていくことが大事」。自分で苦労したことしか、身に付かない。
 続いて、宝石デザイナーの言葉。「反復作業を集中してやれば、多くの物が身につきます」(須藤靖貴著『銀座のプロは世界一』日本経済新聞出版社)。一見、平凡な作業の繰り返しかもしれない。しかし、この地道な作業を通してこそ、確かな技術が身に付いてきます。
 一つの道を究める人に必要なのは、決して天分だけではないことが判ります。何よりも必要なのは、根気と粘り強い努力です。それは自分の中にある弱さとの闘争です。できない言い訳をするより、一歩でも前に進む努力を重ねたいものです。  

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2012年08月13日

最初の“一人”

 17日間に渉ったロンドンオリンピックも今日が最終日です。オリンピックは4年に一度の祭典、日本はオリンピック参加史上最多38のメダルを獲得しました。これら日本選手たちの活躍や世界記録の誕生に深夜まで応援をした人も多かったことでしょう。
 さて、陸上の男子100メートルには、“10秒の壁”がありました。しかし1960年に10秒0が記録されて以来、8年間で8人が10秒0。9秒台で走る選手は現れませんでした。
 壁が破れたのは、68年6月20日の事です。アメリカのジム・ハインズが9秒9の新記録をマークしました。実は、このレースの2着も9秒9でした。さらに直後のレースでも、1着の選手は9秒9だった(小川勝著『10秒の壁』集英社)。
 誰もが不可能と思える記録も、最初の“一人”が突き破れば、壁は壁でなくなります。先駆者が未踏の道を切り開くからこそ、後に続くことができるのです。
 ちなみに現在の世界記録は、2009年の世界陸上・ベルリン大会で優勝したウサイン・ボルトの9秒58です。このウサイン・ボルト、ロンドンオリンピックでも北京に続いて金メダルを獲得しました。  

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2012年08月12日

師への感謝

 福沢諭吉は生涯、師・緒方洪庵を敬愛しました。こんなエピソードが。福沢諭吉が門弟を連れ、師の墓参りに赴いた時のこと、彼は自ら師・緒方洪庵の墓掃除を始めました。「私がやりましょう」と慌てる門弟に対し、「お前がすることではない」と、最後まで触れさせなかったという(西川俊作ほか編『ふだん着の福澤諭吉』)
 翻訳は誰もが分かる文章に――若き福沢は、師・緒方洪庵から教わった心得を愚直に守りました。漢学の素養をなるべく出さず、難字難語を使わないようにしました。その甲斐あって、福沢諭吉の著作は広く読まれ、洋学者として名をあげました。彼は晩年、来し方を振り返りつつ、「無窮の師恩を拝する者なり」(全集緒言)と綴りました。
 師への感謝とは、思うに、その教えを徹して実践することに尽きます。立ち止まらず、かしこぶらず、師の言葉に全身全霊を傾ける。その時、人生の行く手を覆う暗雲は拭われ、尊い使命の道が見えてきます。  

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