2017年05月12日

ミレー

 フランスの画家ミレー。ミレーは、パリの南約60㌔のバルビゾン村に住み、農民の日常の暮らしなどを描きました。「落穂拾い」や「種をまく人」などの作品が有名です。
 ミレーの農民の素朴さを丹念に描く画題を、しかし当時の美術界の権威だったサロン・ド・パリ(官展)は野蛮と評しました。そんななか、ミレーは「我々は、いかなる所から出発しても、崇高に至ることができるし、目標が大きければ、うまく表現することができる」(『ミレーの生涯』井出洋一郎監訳)と、農村を描く誇りを持ち続けたのです。  

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2017年05月11日

摩天楼

 アメリカ中西部に位置するシカゴは、内陸の交通の要衝として発展したアメリカ第3の都市です。私は行ったことがありませんが、訪れると印象的なのは、天を突く高層ビルの威容だそうです。
 1871年、3日間に及んだ大火事は街に甚大な被害をもたらし、1万7000もの建物を焼き払いました。だが再建は早かった。建築家たちが次々と集い、焼け跡の中から、世界に先駆けて「摩天楼」と称される高層ビル群が生まれていったのです。  

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2017年05月10日

心の労作業

 通信販売会社「アマゾン」を創設したジェフ・ベゾス氏が、10歳のころ、大好きだった祖父母と旅をしていました。暇を持て余すベゾス少年は、当時、よく耳にした公共広告を思い出した。たばこを一服吸うごとに、何分寿命が縮まるかという内容でした。
 祖母は、たばこを吸う人でした。少年は計算して、得意げに、祖母の寿命が9年短くなるはずだと告げました。祖母は泣きだしました。がんと闘い、余命が長くなかったのです。
 祖父は車を止め、少年を外へ誘いました。叱られると思いきや、祖父は優しく語り掛けました。「ジェフ、賢くあるより優しくあるほうが難しいといつかわかる日が来るよ」(ブラッド・ストーン著、井口耕二訳『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』日経BP社)
 人を悲しませることは、たやすい。何の配慮もなく、思いつきや感情を、そのまま語っていればいい。しかし、人を安心させ、幸せにするには、”心の労作業”がいります。それが本当の「賢さ」でしょう。  

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2017年05月09日

方法の一つが

 芥川龍之介が、関東大震災で焼けた東京・丸の内を歩いていました。すると、少年の歌う「ケンタッキーのわが家」が聞こえてきたそうです。「僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つた」と、芥川は、その時の真情を記した(『芥川龍之介全集4』筑摩書房)
 人間は、自然の猛威の前には無力だが、そこに甘んじてはいない。「人間の尊厳」を取り戻し、希望を創り出す力を持っている。その方法の一つが「音楽」でしょう。  

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2017年05月08日

団結は号令で生まれるものではない

 ある著名なドキュメンタリー写真家が生前、語っていました。1966年(昭和41年)、甲子園球場で開かれた、関西創価学会の「雨の文化祭」に招かれた思い出ですと。
 豪雨で、プログラムは途中休止を余儀なくされた。「なんとも、重苦しい雰囲気」が広がっていた。スタンドのざわめきがひどい。「学会って、もっと統制が取れた団体で、こういうとき、しわぶき一つないかと思っていた」と。
 しかし「ざわめき」のなか、カメラを構える。冷静になった耳に「ざわめき」の「正体」が聞こえてきました。一人一人が題目を唱えている。誰かの号令ではない。口々に上げている。だから、ばらばらに聞こえたのだ。〝ばらばら〟は自発の故だった。やがて題目は自然に一つになり、厚い雲を突き破るかに思えた。そして、西空から晴れ間がのぞいたのです。
 写真家は泣けて仕方がなかったという。「豪雨を止めた奇跡が起こった」からではない。命令ではなく、一人一人が自分の思いから唱題する姿。それが、やがて一つになった瞬間。その一部始終を目撃したからだと、いつも目を潤ませながら語っていました。
 団結は号令で生まれるものではない。一人一人の自発の思い、決意、誓い。それを引き出した一対一の励まし。そこに創価学会の強さがあるのです。  

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2017年05月07日

福沢諭吉による訳語

 「演説」という言葉は、福沢諭吉による訳語です。「演説とは英語にて『スピイチ』と言い(中略)我思うところを人に伝うるの法」(『学問のすゝめ』岩波文庫)と解説しています。
学問を習得しても、大衆のために語らない。インテリ然と、ふんぞり返っているだけ。そんな手合いに、諭吉は「活用なき学問は無学に等し」「懶惰と言うべし」(同)と手厳しかった。やがて、自身が創立した慶応義塾のキャンパスに「三田演説館」を建設。ここで、尾崎行雄や犬養毅など、多くの言論の雄を訓育したのです。
  

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2017年05月06日

怖かったよ!

 27年半の投獄に耐え、南アフリカの人種隔離撤廃を実現したマンデラ元大統領。その足跡を知り、悠然たる笑顔に接すれば、完全無欠の勇者に思えてきます。
 作家のR・ステンゲル氏による元大統領の評伝『信念に生きる』(英治出版)に、1994年の体験が紹介されています。元大統領を乗せた飛行機が故障し、大事故の危機に陥る。だが元大統領は、同行者に事情を聞くと、あとは新聞を読みふけり、安着すると、何事もなかったように笑顔を振りまいたそうです。
 しかし、空港で氏と落ち合うと、目を見開いてこう言ったのだ。「怖かったよ! 空の上で身の縮む思いだった!」と。権力の弾圧と戦った日々を、元大統領は振り返ります。「私は、己の恐怖心を外から悟られないようにするために、ありとあらゆる方法で恐怖心を克服しようと努めてきた」(前掲書)
 論語から生まれた「敬遠(けいえん)」という言葉があります。敬意を払っても、自分から遠い存在と見る限り、糧とはならない。だが、勇者とは「臆病と戦った人」であると知れば、尊敬だけでなく、自分もその生き方に近づこうという勇気が湧くのです。  

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2017年05月05日

人生を開いていける

 演奏会の舞台で倒れ、右半身にまひが残るも、“左手のピアニスト”として復活した舘野泉さん。
 その言葉が味わい深い。「左手だからこそ/一音一音の響きの大切さに気づいた/音楽に直に触れられるようになった/新しい音楽の始まりだ」(『命の響』集英社)。大切なものを失っても、自分で自分を諦めない限り、人生を開いていけるのです。  

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2017年05月04日

帰郷

 ドイツの詩人ヘルダーリンに「帰郷」という詩があります。「おお街の声 母の声!/声は私を捉え 久しい昔に学んだことをよみがえらす。/昔ながらの姿のまま 陽は照り喜びは萌え/愛する者たちの眼に かつてなく明るく映る」(川村二郎訳) 哲学者のハイデガーは、この詩に論考を加え、帰郷とは「根源に対して近くにいること」(『ヘルダーリンの詩作の解明』〓田恂子、イーリス・ブ■<小書きフ>ハイム訳)と考察しました。故郷は、生まれ育った地理的な場所である以上に、自身を形成した「魂の原点」ともいうべきものでしょう。  

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2017年05月03日

未来のある作者

 「一番価値があることの一つは、未来のある作者を捜し出すこと」と言ったのは美術評論家の柳宗悦です。この心に応えたのが弟子の染色工芸家・芹沢銈介でした。
 柳の著作に感銘し、師事を始めた芹沢は、師との出会いから30年目、ついに人間国宝となったのです。「師の導きによって心一杯、仕事を展げることが出来た」と師への感謝を語りました。彼は師の写真を自宅の応接間に飾り、いつも眺めたという(『染色の挑戦 芹沢銈介』平凡社)。
 柳宗悦の祥月命日は5月3日。この日、心でどんな会話を交わしたことでしょう。  

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2017年05月02日

こども病院の待合室

 こども病院の待合室は、たくさんの玩具であふれています。子どもたちがにぎやかに遊ぶ光景は、病院というより、保育施設さながらです。
 担当の小児科医が、おもちゃで遊ばせる理由を語っています。一つは、遊んでいる子どもの声や様子から分かる体調があるから。もう一つは、同じ病状でも、楽しい気分でいる子の方が大概、治りが早いということだそうです。  

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2017年05月01日

母のたましい

 映画監督の新藤兼人さんは、10歳の時に母が縫ってくれた着物を生涯、大切にしました。この着物、もともとは子ども用の筒袖だったそうです。20歳近くになり、もう着る機会もないと処分しようとした時、袂が縫い込んであることを発見しました。
 その時、既に母は亡くなっていました。大人になっても着られるように、との心遣いを知り、新藤監督は衝撃を受けたそうです。「縫いこんであった袂のあたりには、母のたましいがしみこんでいる気がする」と(『蔵の中から』旺文社)  

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