2017年08月11日

人生は、決断の連続

 人生は、決断の連続ですね。その決断には、熟慮する余裕がある時もありますが、瞬時の判断を迫られる時も多い。自身の「直感」を信じるしかない、という場面を誰もが経験したことがある事でしょう。
 では、直感を磨くには、何が必要か。棋士の羽生善治氏は言っています。「もがき、努力したすべての経験をいわば土壌として、そこからある瞬間、生み出されるものが直感なのだ」(『直感力』PHP新書)と。
 直感は、脳のどの部分に関係するのかについて、理化学研究所が行った研究があります。プロ棋士に詰め将棋の局面を見せ、短時間で次の一手を判断してもらうというもの。結果は、習慣的な行動を記録するとされる「大脳基底核」が強く働いたという。羽生氏の言葉が裏付けられたといえましょう。  

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2017年08月10日

一朝一夕で育たない

 強い日差しに耐えきれず、木々の下で涼をとりました。こずえがずいぶんと高い場所にあります。雨風に耐え、その高さに成長するまでの長い歳月を思いました。
 一朝一夕で育たないのは人も同じです。「昭和の大横綱」と呼ばれた大鵬関は、親方として、弟子に「三年先の稽古、努力をせよ」と言い続けたそうです。目先の結果より、未来にわたって崩れぬ土台を築くために、地道な鍛錬を貫けとの意味でしょう。
  

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2017年08月09日

保存署名

 広島市の原爆ドームは、もとは「広島県産業奨励館」で、美術・物産品が展示される文化振興の場でした。不死鳥のようによみがえり、惨禍の爪痕をほとんど見ることができない市内にあって、鉄骨とれんが壁だけを残すドームは、核兵器の非道を示す象徴となったのです。
 だが戦後、市民感情は解体論に揺れていたそうです。そんな時、原爆症で16歳で亡くなる楮山ヒロ子さんが、死の前年、日記に記した。「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろう」(要旨)。
 その思いに胸を打たれ、保存署名を始めたのが、10人ほどの子どもたちでした。運動は社会に大きな衝撃を与え、永久保存が正式決定されました。51年前のことです。
 世界遺産には原爆ドームやアウシュビッツのように、人類が二度と同じ過ちを起こさないための戒めの意味を持つ“負の世界遺産”があります。また近年、負の歴史があった場所を訪ね、思いをはせる「ダーク・ツーリズム」への関心も高まっています。
 歴史は、それを直視し、正しく残す努力があってこそ歴史となります。負の歴史から目を背けたいという弱さを乗り越える勇気と、風化にあらがう強さが要る。広島、長崎の被爆者の平均年齢が80歳を超える今、切実にそう思います。  

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2017年08月08日

大切な母のため

 少年は、父を戦争で失い、内職で手袋を編む母に育てられました。別々に編んだ手の甲と手首の部分をつなぐ作業に、いつも母は苦労していました。そこで機械好きの少年は、簡単に縫い合わせることのできるミシンを発明したのです。
 この“少年”は、後にニット製品を立体的に丸ごと編める機械を開発し、ファッション界に衝撃を与えた島正博社長(島精機製作所)です。利潤のためだけでなく、“大切な母のため”という純粋な思いと努力が原動力となって、多くの人々を助ける機械は世に送り出されたのです。  

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2017年08月07日

「のれん」を守り継ぐ者

 江戸時代、「天下の台所」と呼ばれた大阪。中でも船場は、老舗が甍を争う商都の中心でした。「鴻池」「住友」「武田」など、ここで生まれ、今も歴史を刻む企業も多くあります。
 船場の老舗は「のれん」を重んじました。「のれんを継ぐ」「のれんを守る」――のれんは、守り継ぐべき「品格」「歴史」の象徴であったのです。
 「のれんを守る」ため、多くの商家が採ったユニークな仕組みがあります。「里子」と「お乳母どん」です。「里子」とは、跡継ぎを文字通り「里」、すなわち田舎の農家に10歳ぐらいまで預けることです。「里子」が無理な場合は「お乳母どん」。商家に女性が住み込み、10歳ぐらいまで育ての親になってもらうのである。「石津乳母」という言葉がありました。堺の小さな半農半漁の村だった石津から来た女性が、最適の育ての親といわれたのでこの名があります。
 農家を手伝い、額に汗して働く。育ての親から漁家の苦労を聞く。そうして、商家とは全く違う生業の大事さを知る。裕福とはいえない人生の日々の労苦を知る。その経験が、「のれん」を守り継ぐ者に必須の条件とされてきたのです。  

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2017年08月06日

「人間」であること

 8月6日午前8時15分。広島に原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」。乗組員は、全員この世にはいません。いや応なき時の流れです。彼らの受けた命令は、目標地点に爆弾「リトルボーイ」を投下すること。72年前のきょう、作戦は実行されました。戦後の彼らは、自身の行為を正当化し、謝罪を拒びました。
 一方、原爆開発の「マンハッタン計画」に携わる科学者の任務は爆弾の製造でした。その中からただ一人、計画から離脱したロートブラット博士は、他の同僚が計画に参加し続けた最大の理由を「純粋で単純な『科学的好奇心』」と、創価学会の池田SGI会長に語っています。
 巨大プロジェクトの局面、局面で、当事者は職業的使命を遂行しました。その結果、広島・長崎の20万を超える人々が殺されました。だから、同博士も署名した「ラッセル・アインシュタイン宣言」は訴えています。「あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ」と。
 軍人である前に、科学者である前に、政治家である前に、「人間」であること。回り道のようだが、この根本からの思考なくして、絡み合った核をめぐる軍事外交ゲームの糸を解きほぐすことはできません。そのためにきょう一日、静かに広島の声に耳を傾けたい。深く心にとどめ置くために。  

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2017年08月05日

1908年のことです

 日本人が初めてブラジルに移住したのは、1908年のことです。移民船に乗船した781人の中に、広島出身の児玉良一氏もいました。氏は、異国での生活に苦労は絶えなかったが、充実の日々だったと振り返っています。しかし41年、日本が真珠湾を攻撃。ブラジルは連合国側につき、日伯の国交は断絶してしまいました。
 以来、日系人は苦渋の歴史を歩んだのです。氏は仕事を失い、息子は兵役で軍に奪われました。祖国である日本は戦後、復興に追われ、移住者を顧みる余裕はありませんでした。しかし氏は言っています。戦争に負けたから移住者は永住する覚悟を固めた、と。
 創価学会の池田SGI会長は児玉氏と対談集を発刊し、移住した人々の労苦を最大にたたえました。「互いに助け合い、信頼を勝ち得、今日の繁栄を築かれた。日本はこの歴史を忘れてはならない」と。  

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2017年08月04日

健康人生の鍵

 米国の文芸評論家マルコム・カウリーが自著『八十路から眺めれば』(小笠原豊樹訳、草思社)で、16項目の“老いを告げる肉体からのメッセージ”を挙げています。
 例えば、「去年よりも足先が手から遠ざかったように感じられるとき」や「階段を下りる前に踊り場で一瞬ためらうとき」など。米国人の生活に即した例ですが、世界共通の老いの実感といってよいでしょう。加齢とともに忍び寄る肉体の衰え。その必然のことわりを受け入れながら、いかに精神を衰えさせることなく、成長を続けていくか。ここに健康人生の鍵があるのです。  

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2017年08月03日

アリの気持ちになって

 つぼみをつけたコスモスの先にアリが上っていました。それを見た物理学者の寺田寅彦はつづった。「どうして蟻がこの高い高い茎の頂上につぼみのできたことをかぎつけるかが不思議である」(『柿の種』岩波文庫)
 人間が小さなアリの気持ちになって、この世界を見ることはまれです。だが、ふとした時に、そうした想像力、共感力がわき上がることがあるものです。  

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2017年08月02日

青い象

 子どもが象の絵を描きました。青い象でした。そんな象は実際にはいない。でも、「それが間違っているなんてことはないのです。それは皆さんの象なのですから」。こう語るのは、絵本画家のブライアン・ワイルドスミス氏である(野村道子訳)
 創価学会の池田SGI会長の創作童話の挿絵を手掛けた氏は指摘しています。子どもの心は真っ白な本であり、そのページに何を書き込むかで将来は決まる、と。あらゆる可能性があるからこそ、若芽を伸ばすきっかけを与えてあげたいものです。  

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2017年08月01日

編集長

 昨年放映された、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は戦後、100万部もの販売部数を誇った生活総合誌「暮しの手帖」の創業者たちが、モデルとして描かれていました。
 その中の一人、編集長の花森安治は、口は悪いが、読者への心配りを忘れない“職人”でした。「難解でもないことを難解にいうのはバカな学者がやることだ。難解なことをわかりやすく表現し、正確につたえる、それが編集者のしごとだ」と。
 企画案も、「上からひとを見下すような」「説教でもたれようかとする」内容が出ると、叱り飛ばして却下しました。「読者とおなじ眼線に立って、文章を書け」「きみの書いた文章が、八百屋の奥さんにそのまま読んでもらえるか、魚屋の奥さんにわかってもらえるか、それを考えて書け」と。(唐澤平吉著『花森安治の編集室』晶文社)
 活字が、戦争賛美・戦意高揚に利用された時代を知るからこそ、彼は、それを扱う責任の重さに向き合い、自らを律し続けたのでしょう。  

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