2012年07月18日
動執生疑
こんな経験をされた事はありませんか。知人との語らいで、なかなか理解してもらえなかった時は。だが「違いを思い知らされることが、ほんとうの意味での理解ではないか」と大阪大学総長の鷲田清一氏は考察しています。
著書の中で、言葉を交わすほど、互いの違いが際立ってくるはずであり、「納得」は言葉のぶつけ合いの果てにやってくるとも(『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書)と指摘しています。
同じ事柄にしても、感じ方は人それぞれ。「この人は、こう考えているんだ」とわかることから、一歩踏み込んだ対話が始まります。何を考えているのかわからない相手との対話は、心に触れている実感がわかないばかりか、腹の探り合いになってしまう事でしょう。
仏法に「動執生疑」という言葉があります。言葉の意味は「それまで執着していた信念が動揺し、疑いが生じること。」それは真実に目を覚ます好機でもあります。
著書の中で、言葉を交わすほど、互いの違いが際立ってくるはずであり、「納得」は言葉のぶつけ合いの果てにやってくるとも(『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書)と指摘しています。
同じ事柄にしても、感じ方は人それぞれ。「この人は、こう考えているんだ」とわかることから、一歩踏み込んだ対話が始まります。何を考えているのかわからない相手との対話は、心に触れている実感がわかないばかりか、腹の探り合いになってしまう事でしょう。
仏法に「動執生疑」という言葉があります。言葉の意味は「それまで執着していた信念が動揺し、疑いが生じること。」それは真実に目を覚ます好機でもあります。