2012年10月03日
日露友好の地
日露戦争(1904年)の際、わが国最初のロシア人捕虜収容所がつくられたのが四国・松山でした。捕虜の数は延べ約6000人。当時の松山の人口の“5分の1”に及んだといわれています。
捕虜といっても、監獄に入っているわけではなく、外出も温泉入浴も買い物も自由だったそうです。松山の人々は“同じ人間”として接しました。さらに、祖国を見ずに亡くなった捕虜に対しては、手厚く埋葬されたそうです。やがて、こうした事実が知れ渡り、戦場で投降するロシア兵は「マツヤマ!」と叫んで手を挙げたという事です。この地には、ロシアを望む北向きに墓碑が立つています。
松山のロシア人墓地は、現在も地元の中学生らが整備し日露友好の地と輝いています。思いやりの心こそ、「最も偉大な価値」である平和を生む力となります。
捕虜といっても、監獄に入っているわけではなく、外出も温泉入浴も買い物も自由だったそうです。松山の人々は“同じ人間”として接しました。さらに、祖国を見ずに亡くなった捕虜に対しては、手厚く埋葬されたそうです。やがて、こうした事実が知れ渡り、戦場で投降するロシア兵は「マツヤマ!」と叫んで手を挙げたという事です。この地には、ロシアを望む北向きに墓碑が立つています。
松山のロシア人墓地は、現在も地元の中学生らが整備し日露友好の地と輝いています。思いやりの心こそ、「最も偉大な価値」である平和を生む力となります。