2017年09月08日

第1候補は京都に決定

 原爆をどこに落とすか。事前にアメリカで「標的委員会」が開かれたそうです。18都市から京都、広島、横浜、小倉、新潟に絞られました。第1候補は京都に決定。これ に猛反対したのがスティムソン陸軍長官でした。
 古都の文化的価値も考慮には入れたが、彼には別の思惑がありました。「京都に原爆を投下すれば全世界がアメリ カの行動をヒトラーの暴虐と同等であると非難するであろう」。近刊の『暗闘――スターリン、トルーマンと日本降伏』(中公文庫)に詳しいので関心のある人は一読を。
 著者の長谷川毅 氏はワシントン大学で博士号を取得し、米国市民権を持ちますが、「他の都市に投下することも暴虐行為であることには思い及ばなかった」と手厳しく述べています。   

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2017年09月07日

新時代の夜明けを開いた

 「西の小京都」と称される山口・萩市。道の駅「萩往還」には、幕末の思想家・吉田松陰を中心に、高杉晋作、久坂玄瑞ら門下生の銅像群が立ち並んでいます。
 今年は松陰没後158年。刑死の前日につづられたのが、遺言の書「留魂録」である。死を覚悟した松陰は、「頼むぞ、心の底から頼むぞ」と、後事を弟子に託す言葉を紡ぎ続けた(奈良本辰也著『吉田松陰著作選』講談社学術文庫)。遺志を受け継いだ弟子たちが、新時代の夜明けを開いたのです。  

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2017年09月06日

革靴

 落語家といえば着物姿を思い浮かべますが、3代目古今亭志ん朝は普段、洋装を好んだそうです。2001年に志ん朝さんが亡くなった際、「足のサイズが同じだから」と革靴を形見分けされたのが、林家たい平さんだったそうです。
 まだ格付けで「二つ目」の頃、たい平さんは志ん朝さんに励まされました。革靴を持って「中途半端に売れちゃだめだよ」。自分が食べていける程度の売れ方でなく、落語界全体を盛り上げる人間になれとの約束だと、受け止めたそうです。  

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2017年09月05日

250年以上を経た今も

 肩書や富を他人と比べて卑屈になったり、目先の成果を求めて策に走ったり。一つの事にのめり込むほど、視野が狭くなり、根本の目的を見失ってしまうのが人間の常です。
 「客観視」「俯瞰する眼」を心理学では「メタ認知」ともいいますが、自身の行動を、別の視点から見たり、より長い時間軸の中で考えたりすることで、見えてくるものがあります。
 1753年(宝暦3年)、徳川幕府は、濃尾平野を流れる木曽三川の氾濫を防ぐ工事を薩摩藩に命じました。費用も資材の調達も藩の負担。あまりにも理不尽な幕命に、藩内からは“反旗をかざそう”との意見も出ました。しかし、工事の責任者を務めた家老・平田靱負の視点は違っていました。幕命の是非はともあれ、「水難に喘ぐ気の毒な現地の住民を救済」するのだと(坂口達夫著『宝暦治水・薩摩義士』春苑堂出版)。
 大目的を掲げ、衆議をまとめあげました。難工事は、人的にも経済的にも、藩の重荷となりましたが、幾多の困難を越えて完成した工事は、250年以上を経た今も、現地の人に感謝されています。  

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2017年09月04日

ためらわず書き直した

 マンガ家の手塚治虫氏。デビュー作の「マアチャンの日記帳」という4こまマンガに始まり、生涯に描いた原稿は15万枚という膨大な数に上ります。氏の生前から刊行された全集は400巻に上っています。その編集に当たり、担当者は当初、既存の作品を調整して再録するだけと考えていたが、予想に反して完成に時間がかかったそうです。
 手塚氏は多忙な中でも、過去の作品の古めかしい表現や気に入らない箇所を、ためらわず書き直したという。全面的に直した作品もあった。より良いものを後世に残そうという情熱は、並大抵ではなかったのです(丸山昭著『トキワ荘実録』小学館文庫)  

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2017年09月03日

IO比

 「IO比」という言葉があります。Iはインプット(入力)、Oはアウトプット(出力)のことです。例えば、100冊読んで1冊の本を書けば、IO比は100対1となります。IO比が1対1に近づくほど、書いた内容は中身が薄く、人の話の受け売りに近くなってきます。
 一方、「その圧縮比が高いほど、情報がたくさんつまったいいものが書ける」(立花隆ほか共著『読む力・聴く力』岩波現代文庫)ことになるのです。
 人に励ましの言葉を掛けるときも、原理は同じでしょう。人生経験というインプット、つまり苦労の多さ、大きさに応じて、アウトプットされる言葉の説得力も違ってくるはずです。  

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2017年09月02日

青年・学生の交流

 全国紙の記者を48歳で辞め、以来28年を、妻と二人三脚で日中交流にささげた大森和夫さんの手記があります(『夫婦の「手作り・日中交流」28年』日本僑報社)
 夫妻は日本の歴史や四季等を紹介する日本語教材を自主制作し、210を超える中国の大学に寄贈。日本語作文コンクールも中国で16回開いてきました。その中で、中国の学生には、日本の国と人々を理解したいという熱意があり、互いを知ることが友好の基盤だと痛感したという。
 創価学会の池田SGI会長が開いた日中友好は、青年・学生の交流に最も力を注いできました。1968年9月の国交正常化提言も対象は学生で、“日中の青年同士、手を取りあおう”と訴えています。一人と一人の友情から国と国の友好へ――ここに平和への王道はあるのです。  

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2017年09月01日

大いなる飛躍

 「治乱興亡」という熟語があるように、歴史は、さまざまな勢力による興隆と滅亡の繰り返しとして描かれてきました。多くの歴史小説を著す中津文彦氏によれば、興隆・滅亡には“方程式”があると語っています。
 滅亡に至る共通項は「準備不足」「孤立」「奇策」の三つ。一方、興隆の共通項も三つあり、最初の二つが「周到な準備」と「連携」。滅亡の方程式とは反対の事柄です。しかし氏は、最後の3点目に、全く同じ「奇策」を挙げていのす(『日本史を操る興亡の方程式』PHP文庫)
 どういうことか。準備不足で、孤立した者が策に走ると滅亡を招くが、準備を重ね、強い連携を築いた上で、定石を破った大胆な策に打って出るときには、大いなる飛躍が期待できる、ということです。  

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2017年08月31日

かあさんのこもりうた

 クマの親子を描いた『かあさんのこもりうた』(金の星社)という絵本があります。
 3頭の子グマは、自分たちへの思いを込めた母グマ自作の子守歌を聞いて、いつも眠りについていた。だがある日、母グマは森を襲った嵐の犠牲に。残された子グマたちは、つらくて心が挫けそうになる。それでも子守歌に母の愛と希望を見いだし、悲しみから立ち上がるという話です。
 この絵本が誕生した背景には、一つのエピソードがあります。東日本大震災で母を亡くした小学3年生の女の子の元に、一通の手紙が届きました。差出人は亡き母でした。小学校へ入学する娘にランドセルを購入した際、母がわが子に宛てた手紙を書き、それを1000日後に配達する「未来へつなぐタイムレター」という企業サービスによるものだったのです。この実話をきっかけに絵本は生まれたのです。  

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2017年08月30日

夢のような話

 体に負担なく、がんを効果的に攻撃し、副作用なく治すことができるかもしれない――夢のような話が、米医学誌に発表されました。
 体に無害な、特定の近赤外線を当てることで、がん細胞に対する体内の免疫機能を活性化させ、がんを壊す。この試みに、米国立衛生研究所が動物実験で成功した。臨床試験はこれからで、実現は容易ではないだろうが、一つの希望には違いないでしょう。
 モスクワ大学元総長の物理学者・ログノフ博士は、池田SGI会長との対談で、体内における異物と免疫との関係を「ミクロの宇宙戦争」と呼びました。健康な人にも日々、がん細胞が体内で生まれるが、絶えず免疫がそれを排除する。だから健康でいられる、と。  

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2017年08月29日

トインビー博士

 複数の言語に精通していた歴史家のトインビー博士も、日本語にはなじみが薄かったそうです。それでも日本を訪れた折には、片言の日本語で道を尋ねようと試みていました(『回想録I』社会思想社)
 後年の池田SGI会長との語らいは、時に通訳を介さず、身振り手振りを交えて行われた。深遠で哲学的な内容に、通訳が立ち往生する場面もあったそうです。対談集『21世紀への対話』の英語版が完成して今年で41年。2人が「平和」という根本目的で一致していたからこそ、言葉の壁を乗り越え、今も世界の人々に英知の光を送り続けるのでしょう。
  

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2017年08月28日

ガンジー

 アメリカ創価大学(SUA)のキャンパスには、インドのガンジーの像が立っています。かつて創立者の池田SGI会長は、ガンジーの逸話を紹介しました。――独立運動で各地を回っていた時、一人の少年が鉛筆を寄付した。長さ3センチほどのそれを、ガンジーはずっと大切にしたそうです。〝小さな鉛筆でも、子どもにとって大事なものだ。そうした国民の「思い」を忘れて、私の政治活動はあり得ない〟と。
 一つの物、ささいな言葉の奥にも「心」がある。その「心」を感じ、自らも心を尽くして応えていく中に、人間としての崇高な生き方がある。とガンジーは教えているのです。  

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2017年08月27日

女川町とネルソン市

 震災で大きな被害を受けた宮城県・女川町。国内外から、さまざまな支援の手が差し伸べられました。その中にカナダ・ネルソン市からの義援金・支援物資がありました。実は女川町とネルソン市は、以前から長い交流の歴史を持っているのです。
 女川湾を望む小高い場所に碑があります。昭和20年8月9日。女川は、米英そしてカナダの艦載機に攻撃を受けました。攻撃は翌日まで続き、150人以上が亡くなったといわれています。この攻撃の指揮をしたロバート・ハンプトン・グレー大尉の搭乗機は、被弾し墜落しました。敷地の碑はグレー大尉を慰霊するものなのです。大尉はネルソン市出身でありました。
 大尉は、いわば、女川攻撃を指揮した「敵」でした。しかし女川の人々は、「昨日の敵は今日の友」(碑文から)と、記念碑を建立したのです。これが敵味方なく「全員の霊を慰め」、「平和」の「徴し」となることを願って。女川町とネルソン市の交流の原点なのです。
 女川町とネルソン市は当初の出会いは”悲劇”でした。しかし、それを「平和への原点」に転じた人々がいたのです。「交流の第一歩」とした人々が続いた。そして今、「支援の動機」とする人々がいるのです。
 「悲惨な戦争」から「尊き平和」へ。「被災」から「復興」へ。強い意志を持ち、今日も一歩を歩む人々がいる。私たちも、その歩みを忘れないで行きたいものです。  

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2017年08月26日

支える人

 やすし・きよしなど、多くの逸材を育てたプロデューサーの証言です。「次のコンビが、ずっと漫才ブームを支えたんですよ。すごい芸だ」。コンビの名は二葉由紀子・羽田たか志。キャリア半世紀以上のベテラン漫才コンビです。客席は終始、大爆笑でした。
 1980年代初めから、何度か漫才ブームが起こりました。テレビ各局は、映りを派手にするため、大規模なセットを作りました。その為、出演者が入れ替わるたびに、セットの点検や交換に時間がかかります。その数分間、会場の熱気を持たせねばならない。そんな時に登場するのが由紀子・たか志でした。
 難しい仕事だが、いつも舞台を盛り上げ、役割を果たす。その出番は放映ではカットされます。表舞台に立つ人の陰には、支える人がいるのです。と  

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2017年08月25日

「しんゆう」色々

 この夏、帰省先などで、旧交を温めた人も多い事でしょう。直接会えなくても、電話や暑中・残暑見舞い、メールやLINE、フェイスブックなどのSNSで、交流を広げる機会もあったかもしれません。
 特に仲の良い友人を「親友」と呼びますが、心から理解し合っているという意味で「心友」と書く場合もあるそうです。そこから連想はさらに広がります。新しく友達になった人は「新友」と呼んでいいかもしれません。信じ合える友は「信友」、互いを伸ばすことのできる関係なら「伸友」、付き合いの深い友は「深友」と言えるでしょうか。  

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2017年08月24日

トップの記事

 インターンシップ(就業体験)で来た女子学生に、ある地方紙が小さな書道展を取材してもらったそうです。原稿用紙と格闘した彼女の記事は、いい内容でした。そこで、あらためて取材し直して出来た記事は、社会面のトップを飾ったそうです。
 女子学生が取材した出展者は、病気でほとんど目が見えなくなっていました。しかし「目が見えていた証し」として、書道の作品を書き続けていたのです。
 インターン研修生でも、トップの記事を書けた。なぜなら――と、当時の社会部長は言っています。「研修生が書くわけではなく、相手が書かせてくれるわけですから」(『「知」の挑戦 本と新聞の大学Ⅰ』集英社新書)
 編集に携わる人の実感でしょう。  

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2017年08月23日

証言

 1945年(昭和20年)8月、陸軍兵器学校の学徒として、広島の兵舎にいた男性が生前、語っていた証言です。
 終戦直後の8月24日。故郷へ帰るため、広島駅へ向かった。その途中、霧雨が降りだした。突然、周囲の景色が明るくなったように見えたそうです。原爆で亡くなった人々の遺体から、染み出した物質が燃えているのか、赤や青の炎が上っていた。それは〝もっと生きたかった〟という無念さを訴えかけるようだった。思い出すのもつらく、長く胸の内にしまっていたという。  

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2017年08月22日

現状維持バイアス

 大歴史学者のトインビー博士は、毎朝9時ごろには、気分が乗っていようがいまいが、机に向かったそうです。曰く「仕事をしたい気持ちになるのを待っていたのでは、いつまでも仕事はできない」と。
 この職業的体験には裏付けがあります。認知心理学で「現状維持バイアス」と言い、人間には、労力を掛けた末に失敗することを恐れ、自身の状況を大きく変えるような決断を避ける傾向がある。大事な作業の前に、急に部屋の掃除など、些末なことをやり始めるのも、万一、作業に失敗した時に“十分な時間がなかった”と、自分に言い訳できるからだという(『「時間の使い方」を科学する』一川誠著、PHP新書)  

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2017年08月21日

美しいというだけで植えられた訳ではない

 長野県の高原地域には、ダイコン畑の畝のあちこちに、オレンジ色のマリーゴールドが咲いているそうです。他の畑には、白い花弁のカモミールも見られます。
 これらの花は、美しいというだけで植えられた訳ではないそうです。ダイコンの脇に咲くアフリカマリーゴールドは、農作物への病害虫の繁殖を防ぐ。カモミールはキャベツ等の近くに植えると、同じ効果があるそうです。こうした、互いに良い影響を与える植物を「コンパニオンプランツ(共栄作物)」といいます。
 花が咲く姿は、それだけで美しいですが、自分が命を咲かせることで、他の何かを守り、助けていると思えば、一面の花々も、一層いとおしく思えます。
 マリーゴールドの花言葉は「生命の輝き」、カモミールは「逆境に耐える」であるそうです。  

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2017年08月20日

魅力的

 役を演じるのは難しい。あらかじめ決まっているせりふを、あたかも初めて口にするように、新鮮な演技でなければならないのだから……。俳優の香川照之さんが苦悩を吐露しています(『日本魅録2』キネマ旬報社)
 台本を渡されず、場面ごとに説明を受け、はつらつと演じる子役にかなうわけがない、とも。そんな中で香川さんは語っています。「先を知らない人間というのは魅力的に見えるということだ。ならば人生とは、それがどんな人生であっても魅力的なものなのだ」とも。  

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