2014年02月21日
念仏の境地
「希望学」を提唱・研究する社会学者の玄田有史さんが、とある寺院に頼まれて講演をした時のことの話です。聴衆の反応に、手応えが感じられない。尋ねると、「浄土真宗の経典に「希望」という言葉は出てこないので」、との答えだったそうです。それが教えの特徴であることに、玄田有史さんはあらためて気付いたという(『希望のつくり方』岩波新書)
浄土真宗の祖は、鎌倉時代の親鸞です。親鸞は地震や飢饉・悪疫で多くの人々が亡くなる惨状を見て、哀れに思いつつも、しかし生死無常の理は仏が説かれているので、今さら「おどろきおぼしめすべからずさふらふ(=驚くことではありません)」(末燈鈔)と記しています。
この、人ごとのような淡泊さは何でしょう。とてつもない悲劇に見舞われた時、人は「怒り」や「悲しみ」を通り越して、しばしば「無力感」にとらわれる。そこに安住するのが、念仏の境地なのかもしれません。
浄土真宗の祖は、鎌倉時代の親鸞です。親鸞は地震や飢饉・悪疫で多くの人々が亡くなる惨状を見て、哀れに思いつつも、しかし生死無常の理は仏が説かれているので、今さら「おどろきおぼしめすべからずさふらふ(=驚くことではありません)」(末燈鈔)と記しています。
この、人ごとのような淡泊さは何でしょう。とてつもない悲劇に見舞われた時、人は「怒り」や「悲しみ」を通り越して、しばしば「無力感」にとらわれる。そこに安住するのが、念仏の境地なのかもしれません。