2013年09月01日

金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって、東京は焦土と化しました。首都をよみがえらせるため、帝都復興院総裁の後藤新平が、まず、着手したのは道路を敷くことでした。その大胆な区画整理を伴う復興計画は、地権者の猛反発、財政難という壁の前に大幅な規模縮小を余儀なくされました。だが、環状道路などにその名残を留めるように、現在の東京の都市骨格を築いたのです。
 後藤の先見は都市計画だけではありませんでした。未来への道を開くために最も必要なのは「人材」との信念を貫いた事です。実力と情熱ある人材を登用しては、飛躍の機会を惜しみなく与えました。後藤新平が、台湾総督府民政長官の時代、破格の処遇で新渡戸稲造を引き抜いたことは有名な話です。少年団(ボーイスカウト)総長も務めた彼は、晩年、こう語りました。「金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上」と。  

Posted by mc1460 at 11:29Comments(0)TrackBack(0)つぶやき