2016年10月17日

機械的な「連絡」

 自分が思ったことを、他者も同じように受け取るとは限りません。この小さな意識の差が、やがて、いさかいに発展する場合もあります。史書『吾妻鏡』は、こんな出来事を伝えています。
 鎌倉・鶴岡若宮の社殿が棟上げし、源頼朝が大工の棟梁へ馬を贈る事にしました。その馬を引く役を源義経に命じました。だが彼は「折悪しく下手を引く者がいない」と、自分と共に役を務めるのに適した者がいないと言いました(五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』吉川弘文館)。頼朝は義経が「役目が卑しいものだと思い、あれこれと言って渋っているのだろう」と激怒しました。
 〝自分は一般の御家人とは違う〟と、特別扱いを期待する義経。一方、頼朝には、同じ源氏でも主は自分であり、主従のけじめをつけるべきではないかとの思いがありました。2人のすれ違いは対立へ発展していきます。事を大きくした原因の一つは、対話の欠如にありましょう。
 プラトンは「言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる」(岩田靖夫訳)と。真情を率直に語り合う言葉の不足は、理解の芽を摘み、猜疑心を育て、人間不信へとつながります。
 メールはもちろん、顔を合わせても、機械的な「連絡」に終始すれば、心にずれが生じてきましょう。腰を据えて、思いを言葉にする。そこに信頼は生まれます。

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