2015年06月18日
天王山
勝敗の重要な分岐点のことを「天王山」といいます。これは1582年6月、羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を破った「山崎の戦い」を淵源とする言葉です。
秀吉は毛利勢との戦から身を翻し、電光石火の進撃で、本能寺に散った主君・信長のあだを討ちました。勝負を決したのが、山崎にある天王山だった。ここは、京都と大阪を結ぶ要衝。この山を制し、形勢を逆転したのです。
作家・吉川英治は、この戦いの秀吉を生き生きと描いています。「敵の中に自己の中軍を置いたとも云い得るほど、大胆なる積極性をその馬印に掲げて、前進また前進、一歩たりと、退くことをしなかった」。秀吉に語らせる。「かくの如き時は生涯二度とはありませぬ」「時を逸して悔いを千載にのこし給うな」(『新書太閤記』講談社)と。
秀吉は毛利勢との戦から身を翻し、電光石火の進撃で、本能寺に散った主君・信長のあだを討ちました。勝負を決したのが、山崎にある天王山だった。ここは、京都と大阪を結ぶ要衝。この山を制し、形勢を逆転したのです。
作家・吉川英治は、この戦いの秀吉を生き生きと描いています。「敵の中に自己の中軍を置いたとも云い得るほど、大胆なる積極性をその馬印に掲げて、前進また前進、一歩たりと、退くことをしなかった」。秀吉に語らせる。「かくの如き時は生涯二度とはありませぬ」「時を逸して悔いを千載にのこし給うな」(『新書太閤記』講談社)と。
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