2016年09月10日

世界記憶遺産

 1215年に調印されたマグナ・カルタ、ベートーベンの交響曲第9番ニ短調作品125、アンネ・フランクの日記。これは300以上の登録件数がある世界記憶遺産の一端です。
 世界記憶遺産は、世界遺産、世界無形文化遺産とともに、ユネスコの三大遺産事業の一つです。日本からは、炭坑の生活を伝える記録「山本作兵衛コレクション」など、3件が登録されています。
 私たちの「今」があるのは、「過去」の積み重ねがあってこそ。人類の不断の努力の上に成り立っています。世界記憶遺産は、その記憶を長くとどめるための取り組みなのです。  

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2016年09月09日

時間がない

 仕事、家事、育児に追われ、「時間がない」が口癖だった婦人。ある時、4歳の娘に言われたそうです。「時間はどこでなくしたの? 一緒に探すよ」と。その婦人はハッとしたそうです。子供からは母親が、落とし物が見つからず、困っているように見えたのでしょう。きっと笑顔も消え、知らず知らずのうちに、心配を掛けていたかもしれない。なくしていたのは時間でなく、〝心の余裕〟だった――以来、婦人は「時間がない」という言葉を、「充実しているわ」に置き換えるようにしたそうです。
 〝心のスイッチ〟を「受動」から「能動」に切り替えることで、時間の捉え方も違ってきます。何をやるにせよ、受け身の人は重荷に感じ、前向きの人は心軽やかに進めて いけます。この生命の勢いが、多忙の中にも心の余裕を生むのです。  

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2016年09月08日

第五福竜丸

 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」。これは1954年(昭和29年)9月、アメリカの水爆実験による〝死の灰〟を浴びて亡くなった、無線長・久保山愛吉さんの悲痛な叫びです。
 この言葉は、東京・江東区の第五福竜丸展示館の記念碑に刻まれています。そして、久保山さんが亡くなる半年前の3月、マーシャル諸島のビキニ環礁で被ばくした漁船「第五福竜丸」の名は、歴史に残っています。  

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2016年09月07日

福島県の飯舘村・浪江町

 本年は戦後71年です。福島県の飯舘村には、私たちが忘れてはならない歴史があります。同村は全戸の3分の1が、旧満州などからの引き揚げ。未開拓の荒れ地だった飯舘に入植した(福島県農地開拓課『福島県戦後開拓史』)。
 隣の浪江町も、半数が引き揚げ家族です。この地域は、県内の他地域と比べても、気温が数度低い寒冷地です。人々は木を切り、土地を耕し、半世紀がかりで、「日本一美しい村」にも選ばれている麗しい里をつくりました。
 だが今、村には、除染した後の包材があちこちに積まれています。  

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2016年09月06日

負の遺産

 長崎の原爆遺構が国の文化財に登録されています。城山小学校(旧・城山国民学校)にある被爆校舎など4件となっています。被爆校舎には、原爆の熱線による凄まじい焦げ跡が残っています。爆心地から500㍍の同校では1400余人の児童、31人の教職員、105人の学徒報国隊員らが亡くなりました。戦後、建て替えや解体の話もありましたが、原爆の脅威を伝える建築物として保存されてきました。
 後世への戒めとなる遺構を「負の遺産」という。世界遺産にも、原爆ドームのほか、アウシュヴィッツの強制収容所、アパルトヘイト(人種隔離)で政治犯を収容したロベン島などがあります。  

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2016年09月05日

小学校の卒業文集

 「大人になったらベルリン・フィルの指揮者になりたい」。小学校の卒業文集に記した夢。それを約40年かけて実現したのが、テレビ番組「題名のない音楽会」でおなじみの佐渡裕さんです。
 佐渡裕さんが、かつてフランスで苦闘していた時、確認したことがあります。自信とは「ありのままの自分を信じられること」。それまでは、「自分を強く見せること」だと錯覚していた(『僕が大人になったら』PHP文庫)と。  

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2016年09月04日

山下公園

 神奈川県・横浜市にある山下公園は今年、開園86周年を迎えます。この公園の開園には、関東大震災の苦難の歴史が刻まれています。1923年(大正12年)9月、南関東を中心に甚大な被害を出した大震災。震源は、東京よりも横浜に近かったのです。
 横浜では、火災による死傷者数は東京より少なかったものの、住家全壊率が80%を超えるなど、壊滅的な被害を受けました。その折に発生したがれきを集めて埋め立てたことが、園地の基礎になっていると記録されています。今、園内で憩う人々の姿からは想像できませんが、山下公園は、荒廃から立ち上がる市民の、不屈の精神の象徴でもあるのです。  

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2016年09月03日

平均寿命

 「人間五十年……」とは、織田信長が好んで歌い舞ったといわれる「敦盛」の一節ですが、なんと、平均寿命が50年を超えたのは戦後のことです。まして、鎌倉時代は、戦乱・疫病等で、長寿を全うするのは容易でなかったようです。
 創価学会版の御書をひもとくと、日蓮大聖人御在世当時、高齢の門下が、師弟の道を意気軒高に進んでいた様子が浮かび上がります。例えば、90歳になる富木常忍の母が、丹精込めて縫い上げた帷子をご供養した際、大聖人は「自ら両目を無理し、身命を尽くして作られたことでしょう」「(この恩は)報じがたい」(968ページ、通解)と返礼を送られています。
 また日興上人は、大聖人の御入滅後も、半世紀にわたって妙法流布に生き抜かれました。「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(御書1618ページ)――この「日興遺誡置文」は、亡くなる直前に記されたと伝わっています。  

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2016年09月02日

ますます強くなります

 日本画家の朝倉摂さんは、子ども時代から絵画に没頭していたそうです。10代のころ、夜、地球の反対側では、まだ現役だった巨匠・ピカソが描いているかと思うと、居ても立ってもいられず、徹夜で絵を描いたという逸話もあります。
 影響を受け、尊敬する人物が偉大であればあるほど、自分も成長しようという意欲は、ますます強くなります。朝倉さんは後年、活躍の分野を広げ、舞台美術家としても国内外で注目されてもいます。  

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2016年09月01日

こころはだれにも見えない。けれどこころづかいは見える

 「確かに〈こころ〉はだれにも見えない/けれど〈こころづかい〉は見えるのだ」「同じように胸の中の〈思い〉は見えない/けれど〈思いやり〉はだれにでも見える」。これは詩人・宮澤章二さんの詩の一節です(『行為の意味』ごま書房新社)「こころ」を「つかう」。「思い」を「やる」――つまり、心や思いは、具体的な行為に表してこそ、相手に伝わるものでしょう。
 近代看護の礎を築いたナイチンゲール。教え子が、不規則で激務の仕事に就いていることを熟知する彼女は、手紙を送る際、いつもこう書き添えたという。“私が何かの役に立てるなら、遠慮せずに言ってください”。その心遣いに、弟子たちは困難に立ち向かう勇気をもらったに違いありません。  

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