2013年06月10日
正邪
ショーウインドーを割った!――子どもたちが、町一番のケーキ屋さんに、身に覚えのない罪を着せられました。自分たちをばかにする、分からず屋の大人たちに、子どもたちは敢然と戦いを挑みました。武器は学校新聞――。児童文学『チョコレート戦争』(大石真・作、北田卓史・絵、理論社)の内容です。
学校新聞を読んだ町中の子どもたちは、“自分のことのように”腹を立てました。大好きな店のケーキを我慢してボイコットしていく場面は、ほほ笑ましくも、痛快です。「正義」の感覚は、子どもたちのほうが敏感なのかもしれません。
かつて、歴史家のトインビー博士は、善悪・正邪がはっきりしている問題に関して、中立を保つことは不可能であり、正しくないと指摘しました。それは、中立がかえって悪にくみすることになる、と(『21世紀への対話』)
しかし、もっと言えば、善悪・正邪があいまいな時にこそ、はっきりと悪・邪を指摘することが、欠かせないのではなかろうか。仏法では、人間を苦しめる者を、叱り責め(呵責)、追い払い(駈遣)、その罪を一つ一つ糾明し処分する(挙処)ことの大切さを説いています。
学校新聞を読んだ町中の子どもたちは、“自分のことのように”腹を立てました。大好きな店のケーキを我慢してボイコットしていく場面は、ほほ笑ましくも、痛快です。「正義」の感覚は、子どもたちのほうが敏感なのかもしれません。
かつて、歴史家のトインビー博士は、善悪・正邪がはっきりしている問題に関して、中立を保つことは不可能であり、正しくないと指摘しました。それは、中立がかえって悪にくみすることになる、と(『21世紀への対話』)
しかし、もっと言えば、善悪・正邪があいまいな時にこそ、はっきりと悪・邪を指摘することが、欠かせないのではなかろうか。仏法では、人間を苦しめる者を、叱り責め(呵責)、追い払い(駈遣)、その罪を一つ一つ糾明し処分する(挙処)ことの大切さを説いています。